2010年09月26日

いずれも症状が軽い場合には、口か...

人間はヒト以外の動物に対して、もっとやさしく、謙虚であるべきです。
そうはしないで、生物の頂点として君臨し、化石燃料を使いたい放題使い、地球環境や温暖化に無関心な人たちが多いことは残念でなりません。
人間も、マウスやトリ、フグ、そしてチンパンジー、サルも、みな仲間なのです。
遺伝子を調べてみると、「ヒトは動物の中のほんの1つの種にすぎない、生命の仕組みはほとんど同じ」ということが改めてよく分かります。
遺伝子が簡単に扱える恐怖生命科学の基本的な手法のひとつに、大腸菌にアミノ酸をつくらせる技術があります。
遺伝子さえ特定できれば、その遺伝子だけを取り出して大腸菌のDNAに組み込むことができます。
すると、大腸菌が勝手に、目的とするアミノ酸をつくってくれます。
まさに大腸菌を使った生物工場となるわけで、大量生産も簡単に可能となります。
例えば、インシュリンというホルモンがあります。
インシュリンは血糖値を下げる唯一のホルモンですい臓から分泌されます。
糖尿病の人はインシュリンが不足すると、大変な苦労をすることになります。
糖尿病は最初、痛くも痒くもないために放置されがちですが、ほうっておくと血管をポロポロにし、合併症を引き起こすからです。
合併症としては、網膜の血管が傷害されることによる失明、腎臓が傷害されるために腎透析が必要となる腎不全、そして、末梢神経炎や、結核、肺炎などの感染症にかかりやすいなど、さまざまなものがあります。
いずれも症状が軽い場合には、口から服用する経口糖尿病薬で治療を行いますが、それでも抑えられない場合は、インシュリンの注射が必要になります。
このインシュリンも実は、大腸菌でつくられています。
インシュリンの遺伝子が特定できたために、この遺伝子を組み込んだ大腸菌が休みなく働いてインシュリンを大量に生産してくれます。
精製すれば、ヒトが体内でつくっているものとまったく同じインシュリンを、ほぼ無尽蔵に生産することが可能となります。



看護師 求人 神戸
看護師 派遣会社
posted by サアア at 14:08| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月17日

「Coping」というのは、その...

既に述べたように、評価の仕方には2種類ありました。
(1)出来事をどのように捉えるか、(2)どのように対応しようと思うかです。
そこでラザルスは「評価」を次の2つに分けました。
一次的評価→ある出来事を自分とは無関係とみるか、有益で肯定的なものだとみるか、あるいはストレスに満ちたものとみるかという判断。
二次的評価→対処できるかどうか、どのような対処の仕方があるかを評価すること。
つまり「私にできることは何か」と考え判断すること。
さて、二次的評価にあたっては「対処」(英語でいえば「コーピング」)が重要となってきます。
ラザルスは「対処」(Coping)を次のように定義しています。
「対処(Coping)とは、個人がストレスフルである(ストレスが多い)と評価する、人間一環境の関係から起こる要求と、そこから生じる感情を個人が処理していく過程のことである」英語には「cope」という動詞があり、「copewith」で「(問題など)に対処する、うまく処理する」という意味になります。
「Coping」というのは、その動名詞です。
つまり「コーピング」とはストレスにどうやって対処していくか、そのやり方のことです。



看護師 求人 兵庫
看護師 求人
posted by サアア at 09:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月15日

そこで彼女たちは、なんと足を洗っ...

ある看護研究の失敗ある看護学校の話です。
その学校の教員は、患者が入院してきた時、看護学生が足をお湯で洗う(足浴する)と、そのあとの患者とのやりとりが大変スムーズになる、ということに気がつきました(すばらしい着眼です)彼女たちは、これをなんとか一つの研究のかたちにできないかと思いました。
そこで彼女たちは、なんと足を洗ってもらう患者の体温や血圧など(バイタルサイン)の変化を調べ、グラフにしたのでした。
しかし結局、なぜ患者と看護学生とのやりとり(コミュニケーション)がうまくいくようになったのかは、よくわかりませんでした。
足を洗ってもらって、(血液の循環がよくなったりして)気持ちよかったのだろう、と

看護師 求人 大阪
准看護師 派遣
posted by サアア at 07:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月12日

しかし太陽の大きさは昼間と同じは...

それでは、さまざまな事柄はどのように意識において現象するのでしょうか。
ふつうは意識の外に何らかの原因があって、然る後に意識にそれが現れると考えられます。
しかし例えば、スイカに少しだけ塩をふって食べるとしましょう。
「甘さは増した」とあなたは感じます。
しかしスイカの糖度は増してはいません。
ではあなたが「甘くなった」と感じたのはただの錯覚だったのでしょうか。
また、あなたが夕日を見ていると、とても大きいと感じます。
しかし太陽の大きさは昼間と同じはずです。
あなたは錯覚したわけです。
しかし、あなたが夕日の方が大きく見えると感じることまで否定する必要があるでしょうか。
これと同じく、医療の場面でもきわめて興味深い事例で、「幻影肢痛」というものがあります。
これは手術などで足とか手とかがなくなってしまった患者が、それにもかかわらず、ないはずの手とか足が痛いと訴えるという症例です。
ありもしない手足が痛む、そんなことはありえない。
この患者の痛みは妄想なのでしょうか。
いいえ、患者ははっきりとした意識の中でこの痛みを感じているのです。
医学においては、痛みはしばしば症状のひとつにすぎないと考えられがちです。
病根を処置してしまえば、痛みは自然と治癒する、そう考える医師がいまだに多くいます。
この発想からは、すでに取り外してしまった手足が痛いなどというのは理解不可能の言い草でしかありません。
しかし、本当に患者の立場にたった医療をするなら、客観的に手足があるかどうかによって患者の訴えを断罪するのではなく、患者の意識において、ないはずの手足があるかのごとく痛むのだということを治療の出発点にしなくてはならないはずです。
つまり、患者の意識において、痛みとその痛む手足がどのように現れているのか(現象学的な考察)を出発点にすべきなのです。



看護師 求人 札幌
看護師 派遣
posted by サアア at 12:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。